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| 明治維新 |
約200年余り続いた江戸時代が終わり、明治の世が誕生した。明治維新である。1868(慶応3)年、王政復古のもと新政府が樹立され新しい時代の幕開けを告げた。
新政府の主導権を握ったのは、主に薩摩藩、長州藩、公家の面々で、幕末に左幕派と呼ばれた徳川方の藩はさまざまな場面で冷遇されることとなった。
廃藩置県が実施された地方行政においては、これまでの藩を廃止して地方統治を府と県に統一。「坂の上の雲」の主人公たちの舞台である松山藩といえば、徳川家康の異父弟がその家祖であり、江戸時代には全国多々ある大名の中でも優遇されていたほうである。幕末、長州征伐では幕府の命をうけて海を渡り、長州領内で戦った。そして負けた。鳥羽伏見の戦いでも負けた。
維新後は、城も領内も土佐藩が保管することとなった。それに加えて十五万両の賠償金を朝廷に払わなくてはならなかった。
この支払いが大変であった。藩財政は底をつき、藩士たちの生活は困窮をきわめた。秋山兄弟の父はお徒士(かち)といって、足軽より一階級上のお役目である。武士には上士と下士があり、徒士は上士とはいえない。ちなみに江戸時代には、上士と下士とでは言葉遣いが違い、通婚関係もなく、下士が上士になることはできなかった。家禄十石の秋山家においても、経済困窮は深刻だったといえる。
しかし、新しい時代はこの上下関係を崩壊させた。能力があれば、下士の子でも農民でもその力を発揮する土壌が与えられたのである。
また、明治政府は特に教育に力を入れた。浪人になった武士たちも、新しい士官の道は「学問」であるという風潮がみなぎっていた。
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| 文明開化 |
「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」という当時の流行り言葉があるように、日本人の文化・風俗も大きな変化を遂げた。明治政府は政策として、殖産興業や富国強兵・脱亜入欧、西洋建築、散髪、洋装、洋食などを奨励した。鎖国という眠りから覚めた日本人は、世界各国、とりわけ西洋諸国から大きく立ち遅れたこの国の現状に愕然とした。そして、外国の文化・文明、産業技術の高さに驚かされた。その差を埋めるためにどんな策をとったか。とにかく、真似できるものはなんでも真似をした。「文明開化」を合言葉が、熱病のように広まっていった。そのエネルギーは、すさまじいものであった。200余年たまっていたものが噴き出したのかもしれない。
以後、急速な勢いで近代化を進めていった日本。猿まねと思われようが、陳腐と嘲られようが、過去をかなぐり捨て、ひたすら列強と肩を並べようと突き進んでいった。とりわけ、維新から日露戦争までの30年間の時代の流れは著しく、変化に満ち溢れていた。それは「坂の上の雲」の主人公、正岡子規、秋山好古、真之兄弟の生きた時代でもある。彼らは、ひたすら前を見つめて歩き、登ってゆく坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼっていく。小説の題材になったこの生きざまが可能だった時代であった。 |
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| ふたつの戦争 |
ペリーが初めて浦賀沖に姿をみせて以来、日本人は西洋より400年遅れているこの国の軍事力に気づいていた。特に新政府は、明治維新・文明開化を経て一挙に諸外国に追いつきたいという思いがあった。外国の真似でもよい、軍事力を装備し、それによって欧米列強と肩を並べたいと目論んでいた。いわゆる「富国強兵」政策である。
異例の速さで進んだ日本の産業革命は、それらの商品を売りさばく市場が必要となってくる。その活路として目をつけたのが朝鮮半島である。綿製品や雑貨など輸出し始めた。ところが朝鮮を属国と考えていた清国は、日本の進出を心よく思うはずがない。朝鮮で農民暴動が起こると、同国を保護するという名目で出兵した。日本軍の真の目的は、清の勢力の朝鮮半島からの排除。つまり、朝鮮を支配することであった。朝鮮独立、公使館警護と在留邦人保護を大義名分とし、明治27年日英通商航海条約に調印し、清国に宣戦布告した。日本は黄海海戦で勝利し、遼東半島に進出していく足がかりを得た。
が、ロシア・フランス・ドイツにより三国干渉が行われ、割譲を受けた遼東半島は清に返還された。1899年(明治32年)、中国山東省で義和団の乱が勃発。日本をはじめ列国は軍隊を派遣、この乱を鎮圧した。その後、ロシアは満州にシベリア鉄道を完成。不凍港を求めて南下政策をとり、アジアへの支配を進めてくる。
朝鮮半島を侵食されるのを恐れた日本はイギリスと1902年(明治35年)日英同盟を結び、ロシアに抗議をする。しかしロシアはこれを一蹴し、かえって極東の兵力を増強して日本への圧迫を強化した。これに対し日本は、1904年(明治37)ロシアに宣戦を布告。日露戦争が始まったのである。 |
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あきやま よしふる
秋山 好古
(1859~1930) |
| 陸軍軍人・教育者で真之の兄。日本の騎兵集団を育てて日露戦争の勝利に貢献し、「日本騎兵の父」と呼ばれる。退役後は松山の北予中学校(現松山北高校)校長として、後進の育成に努めた。 |
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あきやま さねゆき
秋山 真之
(1868~1918) |
| 海軍軍人。子規とともに大学予備門で学ぶが、文学を諦めて軍人の道を歩む。日露戦争に参戦し、日本海海戦のときの電文「本日天気晴朗なれども浪高し」は名文として知られる。 |
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まさおか しき
正岡 子規
(1867~1902) |
| 俳人・文学者。松山藩士の息子として生まれる。俳句・短歌の革新を唱えて伝統の文芸に新しい息吹を与え、近代文学の発展に大きな足跡を残す。松山にはじめて野球を紹介したのも子規である。 |
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